Stacyの日記

時事ネタを中心に日常でふと思ったこと

価値観が違っても相手を理解したい

少し前に、2ちゃんねるを運営していた西村博之(ひろゆき)氏が、フランス語のいい加減な知識を開陳して、フランス在住の言語学者から完膚なきまで叩きのめされたという話題がネットに出ていた。

その言語学者はF爺という名前でブログを書いているというので検索してアクセスしてみた。ひろゆき氏の間違いを指摘する記事以外にも面白いポストが多く、過去の記事もいくつか読んでみたところ、F爺が『恋するソマリア』の著者・高野氏とかつて交流し、その後絶交されたことを知った。

ひろゆき氏への批判についてTwitter上で知った時、まずF爺が書かれた『トルコのもう一つの顔』の評判が良いことを知り、Kindleで購入して読んだ。

『トルコのもう一つの顔』はF爺が若い頃トルコという国に魅了され、長期休暇にトルコを幾度も訪れる中で、トルコ国内に非トルコ語を母語とする人たちがいることを知り、長期にわたってトルコ国内でそれら言語の事例収集や研究を行い、ついにはトルコ政府から国外追放されるまでの記録である。臨場感があり、未知の地域での人々の暮らしや態度、権力による弾圧等を知ることができ、とても面白い本だった。

『トルコのもう一つの顔』を読みながら、今年の6月に読んだ『恋するソマリア』を思い出していた。どちらも著者は現地の言葉を理解し、現地の人々と深く交流した上で体験談を書物にまとめ、読者に未知の出来事を生き生きと伝えている。訪れる先の現地語を知っていると、深く現地を知ることができるのだと得心し、私ももっと外国語習得に力を入れようと怠け心に喝を入れた。

今年になって読んで特に印象深かった2つの作品の著者同士がかつては交流し、今では絶縁していることを知って、F爺のブログの「贋物・自称辺境作家」、「贋物・自称辺境作家の捏造東北弁」の書庫に収められている記事を読んでみた。

お二人が交流することになったのは、F爺が記した『トルコのもう一つの顔』を読んだ高野氏が続編執筆の意向を訪ねるメールをF爺宛てに送ったことから始まったらしい。そして高野氏がF爺に編集者を紹介し、『漂流するトルコ・続トルコのもう一つの顔』が発行されることになった。

お二人のトラブルの発端は、高野氏が自身のブログにF爺のことを「ゴルゴ13のようだ」と書いたことのようだ。その比喩についてF爺が高野氏に抗議したものの、高野氏の対応が不誠実だったことから関係が悪化し、交流を断つに至ったことが分かった。

詳しい経緯は不明だが、F爺の抗議に対して高野氏がすぐに真摯に応じていれば、関係がこじれることはなかったのではないかと思われた。

でも、どうして高野氏は誠実に対応せず、抗議の内容を放置したり、質問に対して応じることを回避したりしたのだろうか。

私の推測では、高野氏がF爺を「ゴルゴ13」と形容したのは褒めたつもりで、F爺が誤解して怒っているだけだと軽く考えたからだと思う。F爺は褒めたか貶められたかではなく、自身を形容するのに殺し屋である人物を挙げたことに抗議していることが、高野氏には理解できなかったのだろう。

どうして理解できなかったのかというと、自分と価値観が異なる考え方をする人だという認識がなかったからではないかと思う。これが外国人だったら、抗議に対して相手の価値観を確認し、自身の言動を顧みて、自分の意図したことではないが相手にとっては不愉快だったことに気づき、謝罪し訂正したと思う。しかしF爺が長年海外で暮らしている人だと分かっていても、同じ日本人だというところで高野氏は甘い判断を下し、誉めたつもりだったと弁明すればF爺が理解してくれるものと高を括ってしまったのだろう。価値観が違うこと、F爺にとってはゴルゴ13が誉め言葉にならないこと、そもそも褒める褒めないには関心がないこと、違う捉えられ方をすることに懸念があること等に考えが及ばなかったのだろう。

F爺と高野氏のトラブルを知って、同じ日本語話者であっても価値観が違う場合は大いに有り得ることを改めて肝に銘じた。そもそも同じ家庭で育った兄弟姉妹であっても、価値観や考え方は異なる。自分の意図とは異なる反応をされて相手が不快に思った場合、謙虚に事実に向き合い、相手が不快に思った背景に思いを寄せ、理解するように努めていきたい。