Stacyの日記

時事ネタを中心に日常でふと思ったこと

多様性と差別

コロナ禍の下、在宅する時間が長く、ついついネットばかり見てしまう。特にTwitterは色々な話題が満載で、Twitter上の面白そうな話題から他のサイトに飛んだりして、いくらでも時間が潰せてしまう。 

私のTwitter上では、差別を糾弾する話題が割と頻繁に出てくるが、違和感を覚えることが多い。以前から様々なところで指摘されているが、「差別」と「区別」が混同されているように感じられるのだ。 

「違うと指摘すること」が即「差別」とはならないはずなのに、違いを指摘した人が「差別している」「ヘイトだ」と騒ぎ立てられ、謝罪に至ったりすることもあり、「差別してないのに、謝る必要はないのではないか」と思ってしまう。そして、こんな状況では日本は多様性のある社会は形成できないと感じる。 

なぜなら、多様性のある社会とは、「出自、風貌、宗教、イデオロギー等、様々な面で異なる人々が集う社会」だからだ。「違い」を即「差別」だと捉える人達の間では「多様性のある社会」は達成できないだろう。「違い」は差別を生み出す可能性が高いが、「違い」を即「差別」とみなすのではなく、他人を「自分とは違う人」と認識したうえで、「違う人」を自分と同じ社会に受け入れるようにすること、少なくとも排除しないこと、違いを持つ人が集まる中で問題が起きたら、解決するように動くことが大切なのではないかと思う。 

それでも、「違う人」を受け入れることができない人もいるだろう。その場合は無理に受け入れようとせず、「違う人」から離れて生活したら良いと思う。多様な人が住む中で、全く関係を断って生活することは難しいため、多少は我慢しなければならないが、無理して付き合う必要はないだろう。むしろ、「違う人を受け入れられない自分」を認められず、「違う人が〇〇だから悪い」と相手のせいにして自分の行動を正当化する方がみっともない。 

話は戻るが、「違っていることを指摘すること」は「区別」であって「差別」ではない。「違いを指摘すること」を「差別だ」と糾弾している人達は、一見正義感が強そうに見えるが、多様性のある社会には最も適応が難しい人達のように見える。