Stacyの日記

時事ネタを中心に日常でふと思ったこと

殺人事件の本

事件物の本を時々読む。

最近も立て続けに2冊読んだ。

1つは「上申書殺人事件」と呼ばれている事件、もう1つは数年前に発覚した「尼崎事件」を取り扱ったもの。

上申書殺人事件の本は、収監されている殺人犯が、他にも殺した人がいると自供し、その事実が明らかになるまでを記録したドキュメンタリーだ。死刑囚の告白によって、黒幕だった不動産屋が捕まるが、証拠が固まるまでの経過がドラマのようであった。

尼崎事件は暴力や殺人も恐ろしいが、普通の家庭が崩壊されていく過程がかなり怖い。

どちらも、他人に肉体的に危害を加えることに躊躇しない人物が登場する。

上申書殺人事件では、事件を告白した死刑囚が平然と他人をいたぶっていた。尼崎事件では主犯の女と、暴力装置と呼ばれた主犯の義理の従弟が容赦なく他人を痛めつけていた。

私自身は自分の痛みに弱いし、他人がケガをして血を流しているのを見ても力が抜けるので、こういうサド的な暴力人間の存在は理解できないが、人間には少数でもある一定の割合で暴力に親和性の高い人がいるのかもしれない。

尼崎事件では、家族同士で暴力を振るい合っていたという記述が出てきた。この部分を読むと、ごく平凡な人が、自分自身に与えられる苦痛を回避するために、他者を殴るようになっていく様子に戦慄を覚える。

私は死んでも他人を傷つけたりしない。そう信じたいが、死ぬことは許されず、自分が生きるために他人に危害を加えてしまうことがあるかもしれない。

殺人事件の本を読むと、平凡で退屈な生活が尊く思えてくる。

クラウドファンド

インターネットを通じて募金するクラウドファンドが流行っている。SNSでは、クラウドファンドを始めた、期日が○日までで目標額まで△△円足りないので支援をお願いします、といった情報が流れてくる。

だけど私は一切支援しないことに決めている。

数年前に3~4回クラウドファンドに参加して、その全てが目標額を達成、見返りの粗品なりレポートなりを頂いた。

最後に募金したのは、ちょっとだけ知っている人が立ち上げたプロジェクトで、親しい人がSNSで募金を呼びかけていたので協力した。プロジェクトの内容には興味がなかったが、良いことのように感じて3千円だけ寄付した。

しかし、プロジェクト成立後に頂いたレポートには関心が持てず、またプロジェクトが成立したことに歓喜する関係者達の輪に加わる気も起こらず、何で私は募金したのだろうかと自らの行為に疑問を抱いた。

その後もクラウドファンドのお誘いはたくさん目にしているが、一度も参加していない。

むしろ人々は安易にお金を集め過ぎなのではないかと訝しく思う気持ちが強くなっている。

最近1つだけ募金しようかなと思えるクラウドファンドの募集があった。少し迷ったが、そこの団体はクラウドファンド以外にも募金するルートがあり、クラウドファンドも目標額に達する見込みだったので、クラウドファンドの参加は見送った。クラウドファンドではなく、その団体の銀行口座に直接振り込むつもりだ。

簡単に集金できるクラウドファンドだが、私はこの制度は好きではない。

中年太り

女性は閉経後に太りやすくなるという。以前と同じように食べていると、どんどん脂肪になるというのだ。

私が太っても痩せても関心を持つ他人などいないので、食べたいものを好きに食べ、太ってしまっても良いではないかと思う。一方で、太ると見た目が悪くなって自分が許せないとも思うし、太って洋服のサイズが変わると服を全部買い直さなくてはならなくて面倒だし財布にも厳しい。

そろそろ閉経になりそうなので、体型の急激な変化を避けるために食生活を見直すか、体型のことなど意に介さず好きなものを食べ続けていくべきか。非常に悩ましい。

そんな小さな迷いを抱えている中で目にした記事には、年をとると栄養の吸収が悪くなるので、健康を維持するためにたくさん食べましょうと書かれていた。

どういうことだろう?

年をとると脂肪になる栄養素は吸収しやすくなるが、カルシウムや鉄分等は吸収しにくくなるというのか。それとも、閉経直後の中年期は栄養吸収力は旺盛だが、もっと年齢を重ね、老年期になると栄養吸収力が衰えてくるのか。あるいは中年太りは栄養吸収力の問題ではなく、筋肉が衰えて脂肪が弛み、太って見えるだけなのではないか。

これから中年後期、初老期に向かうに当たり、自分の体型、性格、思考がどう変化していくのか。考えると不安だし、怖いし、わくわくする。

自分に正直になる

私は他人の意見に迎合しがちだ。自分に芯がない。はっきりモノを言う人から「日和見だ」と非難されたこともある。それでも、自分にとって重要ではないことに拘ることが面倒でもあり、会話の中で反論されれば、あなたの仰ることにも一理ありますね、私の認識は間違いでした、とすぐ引き下がってしまう。特に悔しいとも思わない。

ただ、やはり自分が大切に思うこと、重要だと思うことに対しては、このような態度は取ってはいけないと思う。

私は記念日を大切にしたいと思っている。誕生日、命日はその人を思う大切な日だ。誕生日なんか記念日ではない、日常の毎日と同じ日だ、拘るのは人間が小さい。そういう価値観の人もいるだろう。でも私は違う。大切な人の誕生日はお祝いしたいし、私の誕生日は大切な人から祝ってもらいたい。

誕生日を祝って貰えなくて残念だったと大切な人に伝えられることが自分に正直なことだと思う。誕生日なんて小さなことに拘る自分も「私」なのだ。

交流する相手

以前仲良くしていて、定期的に会ってお喋りしていた友人が苦手になってきた。

原因をいろいろ考えてみた。

まず、私の変化。仕事を続けているうちに、給料や出世に対する価値観が変わってきた。給料は多ければ多いほど貯金ができて生活に安心感が得られるが、生活していけるだけの給料が貰えるならそれでいい。ずっと働いてきて、貯金も少しはあるし、公的な年金も個人年金もある。出世もそんなに気にならない。地位を得なければ出来ないこともある。例えば会社の優先業務を決定するには部長以上になる必要があるが、私はそんなことには興味がない。従って、給与や昇進の話題には関心がない。

一方で友人側の変化もある。私が普段の生活に特に不満もなく過ごしているのに、彼女は会社の人間関係や昇進への不満などの問題があるせいか、自分の話ばかりする。以前は双方向だったはずなのに、一方的に彼女の話だけ聞かされ、私が話題を振っても、すぐに自分の話に戻してしまう。

多分、少しずつ生きる上での興味や関心が違ってきて、話が合わなくなっているのだろう。

会っても楽しくないので私から誘うことはなくなった。彼女から時々食事に誘われることがあり、日程が合えば会うこともある。会うときは彼女の話を一方的に聞くつもりで会うので、楽しくはないけど苦痛でもなくなった。会う頻度は減っているので、だんだん疎遠になっていくのだろうか。

以前はいろいろな所に一緒に旅行し、観光したり美味しいものを食べたり楽しく過ごしていたのに、なんだか残念だ。

両親の結婚記念日

両親の結婚記念日に二人が式を挙げた場所に行ってみた。

二人とも既に亡くなっている。50年ほど前、二人はどんな気持ちで式に臨んだのか。他人と暮らすことへの不安と、新しい生活の期待で複雑な心境だったのではないかと想像している。

二人が結婚し、姉と私と弟が生まれ、平凡な家庭ができた。

私は結婚しなかったし、子孫も残さなかった。弟は良い伴侶を得て子供にも恵まれたから、両親の血は途絶えてはいない。

お父さん、お母さん、結婚式の写真は緊張した面持ちで写ってますね。不安も不満もあった結婚生活だったかもしれませんが、二人が温かい家庭を作ってくれたお陰で幸せな子供時代を過ごすことができました。今、あなた達の子供は成長し、大人となり、それぞれ違った人生を歩んでいますが、今のところ経済的にも人間関係にも大きなトラブルはなく、平凡で慎ましく暮らしています。生んでくれてありがとう。いつか天国で再会したいな。

閉経

そろそろ閉経になるようだ。

初潮以来、ほぼ28日周期で規則正しく生理になっていた。それがここ2年は早く来たり、3ヵ月も来なかったりと不規則になっている。この不規則さが閉経に向かっていると実感させる。

閉経にならなる前、45才になった時点で、自分には妊娠出産の機会がなかったと少し残念な気分になった。閉経はその事実にとどめを刺すようなものだ。

と書きながら、出産できなかったことについて特に感慨はない。ただ少子高齢化問題を耳にすると申し訳ない気持ちにはなる。

自分の子は産めなかったが、子育てに励んでいる人達を支えることで埋め合わせができたら良いなと思っている。