Stacyの日記

時事ネタを中心に日常でふと思ったこと

障がい者大量殺人事件

神奈川県内の障がい者施設で元職員の20代の男性が、大勢の障がい者を傷つけ殺した。あまりにも痛ましい事件だ。

身内に老人介護施設にお世話になっている者がいるため、この事件が身近な事件に感じられた。しかも、その介護施設に入っている身内に対して、生きていることは苦痛なのではないかと考えてしまうことが多く、この犯人と自分の一部が重なっているようにも思った。

今回の事件を受けて、メディアでは識者と言われている人が、SNSでは多くの一般人が、様々なコメントをしている。そのコメントの中に、施設に入っている障がい者や老人は、死んだ方が本人も家族も楽だと考えるのは、健常者の傲慢さと独善だとする意見があって、ハッとさせられた。

老人介護施設に入っている身内が生きてて辛いのではないかという考えは、一見相手のことを思っているかのようでありながら、実は自分の欺瞞であり、年を取って弱ってしまった身内を見たくないという現実逃避であり、老人を抱えることの心理的負担から逃れるための方便なのかもしれない。

その身内が生きたいのか、死にたいのか、そんなことは分からないのだ。きっと本人は死にたいのだろうなどと忖度することは、自分の都合に沿った解釈でしかないのたろう。

その身内の寿命は、ただ天に任せるしかない。

失敗を怖れずに挑戦

行動を起こす時、失敗を怖れず思い切りやれ、というアドバイスはよく聞く。これに関しては全く同意する。失敗すると衝撃は大きいが、失敗を回避するために無難にやり過ごすよりも、人生は数倍楽しくなると思う。

 
失敗しなかったものの、挑戦しなかったことで後悔したことがある。ピアノの発表会で間違えないようにテンポを遅くして弾いたことと、書道で形の良い字を目指したこと。どちらも些細な思い出だが、間違えることなく弾けたテンポの遅いピアノは自分でもつまらない演奏だと分かったし、形だけは良い筆で書かれた文字は勢いがなく印象に残らない作品だった。
 
どちらの経験も、失敗しないために守りの姿勢で取り組んだことが、自分としては悔やまれてならなかった。失敗したくないという気持ちを心の片隅に追いやり、ポジティブな結果を想像して行動することが、後悔の少ない人生に繋がる気がする。

貧しくても卑しくならない

公費で私的な出費をする人は卑しいと思う。違法ではなくても、公的な立場にある人は、公私の区別を明確にすべきだ。

政治家や公務員だけでなく、一般の会社でも、私的なことに会社の費用を流用する人はいる。私が社会人になって、そんな上司数人と遭遇した。

大した額ではなくても、そこはかとなくセコく感じられて、人間的にも小さい人なのではないかと印象が悪くなる。タクシー券を過度に要求する人、出張先の旅程に観光コースを組み入れている人、営業とは関係ない飲食代を会社に請求する人、などなど。

ある時、そんなセコい上司の一人から、松茸の食べ放題に誘われた。松茸の土瓶蒸しは好きだが、それ以外の松茸料理はあまり好きではないため、「すみません、松茸は好きではないので遠慮します。」と理由を言って断った。すると、「高価なものをご馳走しようというのに」と上司は不機嫌になってしまった。値段が高くても、好物ではなければ価値なんてないのに、と思い、値段が高いものは価値があるという上司の思考に卑しさを感じてしまった。

私の今の収入は同年代の平均以下だし資産もない。ただ仕事はあって定期的な収入があり、大きな不安もなく生活ができているだけだ。人によっては私のことを貧しいと判断するだろう。貧しいと思われても構わないが、卑しいとは思われたくない。セコくて卑しいと感じた人達を思い出して、自分がそうなってはいないかと振り返ってみたが、今のところは多分、大丈夫だ。

都知事選候補者の醜聞

都知事選候補者の元ジャーナリストのスキャンダルが週刊誌に掲載された。10数年前に大学で教鞭を執っていた時、教え子だった学生を自分の別荘に誘い、性的な関係を迫ったという。

なんて卑劣なんだろう。セクハラであり、アカハラであり、腹が立つ。

性的な被害は、被害者側のダメージやセカンドレイプへの配慮から表沙汰になりにくい。当事者同士が水面下で処理してしまう。飽くまで被害者への配慮からそうなるのだが、こうして第三者に知れ渡ることがないことで、加害者が何食わぬ顔で社会的制裁も受けずに済んでしまうことがある。

都知事選候補者は正にそんな厚顔無恥な加害者だと思う。

被害者だって出来れば記憶の彼方に追いやり、思い出したくない事件だっただろう。それなのに加害者が都知事の候補者として立候補したことで、嫌でも名前や顔を目にしてしまう。

雉も鳴かずば撃たれまい。都知事選に立候補しなければ、過去の醜聞は告発されることもなく、被害者の胸の内にしまわれたまま、闇に消えていったかもしれない。

社会運動について

先週、とある社会運動団体の中で起きたレイブ未遂事件についてネットで話題になった。はてなブログにも取り上げられていて、運動の目的のために個人の被害はなかったことにするという集団の判断に疑問を感じたりした。

その後、あのブログは自発的に書かれたものではなかった、事件を報じた雑誌のステマだった、といったネタも明かされ、私の頭では誰が何をして何が問題なのか理解不能になった。ただ、自分の私的な目的のために他人を操ろうとする行為は醜悪だと感じた。

私自身も社会運動のような活動をしたことがある。社会全体に対してではなく、小さな組織の中で意見が対立した時、一方の側に賛同して意見交換の場に参加したというだけだ。

結果は私が支持した側の意見は聞き入られずに終わった。その運動は負けた訳だが、負けたという結果だけでなく、その運動の過程から私は虚しさを感じていた。最後の方は運動からも離れ、結果も人伝に知ったくらいだ。

何が私を虚しくさせたかというと、運動に参加している人達の呉越同舟な様子だった。私はその組織の意思決定が不透明であることや、その意思決定に基づいて行われる行為が組織の死に繋がる気がして反対の立場にいた。しかし、同じ運動に参加する人の中には、相手側に気に入らない人がいるという理由しかない人もいた。また、同じ立場ではあるものの、自分の意見が百パーセントただしいと疑わず、相手を思慮の足りない馬鹿者扱いする人もいた。相手を馬鹿にしていた人は、交渉の場でも発言の端々に相手を軽んじるニュアンスを含ませ、相手をますます頑なにさせていったように記憶している。

今では運動を共にした人達とは疎遠になっている。相手方とも関係にシコリができ、今は全く交流がない。運動に参加したことで得るものなどなく、失ったものばかりだったと思う。

沖縄の米軍基地問題

第二次大戦後にアメリカに占領され、1972年に本土復帰して以降も、沖縄にはずっと米軍が駐留している。アメリカに占領されていた歴史的経緯と、要衝であるという地理的な有効性から、米軍は沖縄から撤退しない。

米軍基地の撤退を求める活動家の中に、中国共産党に近い人がいるのは事実かもしれない。米軍が沖縄に駐留することで、中国が南シナ海ほどには干渉してこないという現実もあるだろう。

でも、沖縄の人達が米軍を嫌う理由もある。第二次大戦の際、沖縄では多くの民間人が亡くなっている。連合軍や日本軍の犠牲になっているのだ。現在沖縄に住む人達の親戚や友人、知人が殺されているのだ。身内や友人、知人が米軍に殺された人達が、今も米軍が近くに居座ることを忌避するのは当然ではないか。

沖縄の人達の心情に寄り添った上で、外交上、国防上の観点で米軍の沖縄駐留の意味を検討できたらいいなと思う。

不寛容であること

昨日は友人・知人の隠れた傲慢さについて考えていたが、今日は不寛容さについて思いを馳せている。

脳科学者の中野信子先生によると、真面目で正義感の強い人ほど他人に対して不寛容になるらしい。

小さい頃、ちょっとした失敗をしでかした子に「いーけないんだぁ、先生に言いつけてやる!」と責め立ててしまった苦い経験がある。責め立てていた時はヒーロー、ヒロインになったつもりでいたが、後からイヤな気持ちになったことを覚えている。

子供時代の未熟さ故の正義の暴走だったのかもしれないが、大人になっても正義感が強く、完璧な人ほど他者に対して不寛容な気がする。そんな人と一緒にいると、責める相手が私でなかったとしても、息が詰まる。

失敗したことはカバーするし、次は失敗しないように気をつけるから、大目に見て欲しい。こう思うのは甘えだろうか?