Stacyの日記

時事ネタを中心に日常でふと思ったこと

家族旅行

父が亡くなるまで夏休みは毎年家族旅行をしていた。春休みは母方の祖父母が企画して親戚も含めた大旅行、夏休みは我が家だけの家族旅行。春休みの旅行には父は仕事で参加できないことも多かった。

行き先は遠くても熱海で、箱根や那須にも行った。親戚の誰かが勤める会社の保養施設に泊まった。私が幼い頃に泊まったこれらの施設はバブル崩壊後に次々と閉鎖されたという。法人が元気で、社員への福利厚生が充実していた高度成長期の恩恵を受けて実現した旅行だったのだろう。

旅先の数々の思い出の中で、ささやかだけど忘れられない出来事がある。熱海の観光施設にガチャガチャが置いてあり、父、弟、私が回してみた。父は立体的な小さなパズルが付いているキーホルダー、弟はペンダント、私はライターをゲットした。それぞれ欲しいものではなく、父はキーホルダーを弟にあげ、弟はべペンダントを私にくれて、私はライターを父にあげた。父はこの出来事を脳内変換し、「娘から貰ったライター」と他人に自慢しまくっていた。ガチャガチャでお互いに欲しいものが出て来なかったから交換しただけなのに。

それから1年半後、父は急逝した。遺品にはあのライターがあったような、なかったような。父が死んでからもう40年も経つ。早いものだ。

読書感想文

小中学生の夏休みの宿題と言えば「読書感想文」が思い出深い。「創意工夫」や「理科の自由研究」と合わせて、私が夏休みを暗い気持ちで過ごさなければならない課題だった。

創意工夫も理科の自由研究も、よほど才能のある子供でなければ、何の指導もない状況で成し遂げられる宿題ではなかったと思う。夏休み中ずっと何かをしなければならないとプレッシャーを感じつつ、アイデアが何も浮かばない苦痛の日々を過ごしたことは、小中学生時代の夏休みの苦い思い出だ。

読書感想文は、創意工夫や理科の自由研究よりはマシで、課題図書を読んで文章を書けば済んだ。課題図書はクラスで何冊か用意され、クラス内で順番に読んだ。夏休みで学校は閉鎖されていたので、課題図書は自宅に届けられ、その後は次の子の家に届けた記憶がある。期日が決まっていたので、読まずに次の子に回すことも多かった。

小4か小5の頃の課題図書だった『川は生きている』は面白かったが、どうしても感想文としてまとめられずに、結局別の本を対象にして感想文を書いたことも覚えている。

読書感想文は夏休み明けに学校に提出し、良い作品はコンテストに出されるのか、秋か冬くらいに表彰されている子がいた。表彰された子の読書感想文を読んで分かったのは、文書が上手いだけでなく、感想文の対象となる本も良いことだ。読書感想文の良し悪しを決めるのは、対象とする本そのものではないかとすら思ってしまう。『ビルマの竪琴』辺りの読書感想文を、そこそこの作文能力の子が書くと入賞しやすいと今でも思っている。

日本のいちばん長い日

昨年の今頃は、『日本のいちばん長い日』を読んでいた。映画が上映されていたものの、観に行く時間が取れず、代わりに原作を読んでいだ。

まず、宮城事件なるクーデターが企てられたことも知らなかったので、この原作はとても興味深かった。ポツダム宣言を受け入れるか否かを検討するところから、将校の一部がクーデターを計画し、その計画が頓挫して玉音放送が行われるまでの緊迫感は、睡魔も吹き飛ぶほど読書に没頭させるものがあった。

クーデターが成功していたら、日本の歴史は変わり、それこそ日本という国はなくなっていたかもしれない。ただ、クーデターを計画し、遂行していた将校達も、真面目に日本を思っていたことは確かだろう。

約50年前、この小説が発表され、すぐに映画化もされた。昨年公開された映画は新作だが、50年前の映画の方を見てみたい。

それにしても、昭和45年に三島由紀夫が自衛隊の市ヶ谷基地を占拠したのは、この小説の影響だろうか。三島の呼び掛けにも関わらず自衛隊員は蜂起せず、三島の企ては失敗に終わった。戦後は民主主義の時代なので、クーデターではなく選挙で国の行方を決定するのが正しく、三島のやり方は時代遅れだったのだろう。

終戦記念日

8月15日は終戦記念日だ。1945年8月15日に玉音放送があり、日本国民は敗戦を知った。

19:45年の夏、8月6日に広島で原爆を落され、8月9日には長崎にも原爆が落され、8月14日にポツダム宣言を受諾、そして8月15日に玉音放送。正式な敗戦の署名はもっと後に行われたので、8月15日を終戦記念日とすることに異議を唱える人もいる。しかし、天皇によって国民に敗戦が伝えられた日が終戦記念日としてふさわしいと思う。

当時のことは両親や祖父母から断片的に聞いたことがあるが、身近な人のリアルな戦争体験といった感じではなかった。

父は国民学校の児童で、北陸地方に集団疎開をしていた。父方の祖父は戦時中に病気で亡くなっていて、祖母は父の姉達を連れて多摩地方に疎開していた。母はまだ幼く、家族で山陰地方に疎開していた。母方の祖父は徴兵されていたようだが、戦地には行かず日本国内に留まっていたらしい。祖父母の兄弟には戦死した人が何人かいるが、その人達のことについて詳しく聞いたことはない。

今振り返ると、私の幼少の頃は戦後20年から30年で、そんなに昔のことではなかった。2016年の現在、バブル崩壊は27年前のことだが、バブル崩壊なんてつい先日起きたように思える。四半世紀前なんて、そのくらい最近のことだ。私の幼少の頃、祖父母は戦時中や終戦時を、つい最近のことと感じていたのだろうか。

今もシリアは戦争状態だ。イエメンも酷い状況らしい。これらの国々に住む人々が、71年前の日本同様、一刻も早く終戦の日を迎えられますように。

 

SMAP年内解散

深夜0時過ぎ、大晦日にSMAPが解散すると速報が出た。今年の1月に解散報道があり、その後一転して解散は否定され、SMAPの出演する番組での公開謝罪と経緯を辿ったが、結局解散となったらしい。

私はSMAPのファンではないので、解散で良かったと感じている。個々のメンバーには好感を持っているので、今後も芸能人として活躍してくれるのなら、グループで活動しなくても構わない。

むしろ、1月の公開謝罪を見た時、グループで活動することが苦痛な様子に見えて気の毒だった。また、辞めたいのに辞めさせてもらえないのは、職業選択の自由を冒しているようにも感じていた。SMAP解散によってメンバーがSMAPから解放され、苦痛から逃れられるのであれば、喜ばしい。

個人的には、中居君に期待している。かつて彼が演じたような「砂の器」の犯人みたいな憂いのある役をまた見てみたい。

SMAP解散後もメンバーが個々に充実した芸能生活を送れることを願っている。

光陰矢の如し

リオ・オリンピックが始まっている。開幕前は余り盛り上がっていなかったが、始まってみれば、日本選手が活躍し、メダルを獲ったりすると気分が高揚する。

私が盛り上がらずにいたのは、4年に1度のオリンピックだというのに、「もうオリンピック?まさか。もっと先でしょ。」と開催が信じられなかったことが大きい。前回のロンドン・オリンピックも、前々回の北京オリンピックも割と鮮明に記憶している。前回のロンドンから、もう4年も過ぎたなんて!

時が経つのが速すぎて驚くばかりだ。こんな感じで次の東京オリンピックもすぐにやって来るのだろう。

天皇陛下のお言葉

天皇が退位をほのめかすメッセージを発表された。天皇は政治的活動を制限されているため、このメッセージを出すことは認められないという意見もあるらしい。憲法で決められた象徴天皇の枠を越えるものだという。

この指摘を見て、私は天皇や皇室の位置づけに無知であることを自覚した。皇室の方々に苗字がないのは知っているし、選挙権がないことも知っている。でも、憲法や法律で明確に規定されている「皇室」については何も知らない。

数日前から、天皇が国民に向けてお言葉を発せられるとニュースになっていた。天皇の位置づけが分からないせいで、録画したメッセージをテレビで流すことくらいで何で騒いでいるのだろうかと不思議に感じていた。

『日本の一番長い日』でも、玉音放送の録音から保管まで、関わった人達が決して粗相をしないように細心の注意を払っていた様子が描かれていた。戦中は天皇は現人神だったから、玉音を録音した盤を保管する容器や、その容器を包む布まで議論の対象になったのも、そんなものかと思って読み進めたが、今も天皇のお言葉が大事件のように扱われることに驚いた。

お言葉の中身については、天皇が退位を考える理由が己ではなく、後継者や国民を思ってのことだと分かり、とても感銘を受けた。祭祀も行幸も、日本を訪れる国賓への応対も、国の象徴として生きる心理的負担も、私のような庶民には計り知れない。

天皇のお言葉を受けて、今上天皇がご存命のうちに浩宮が引き継ぐことになるのかどうか。皇室の今後については分からない。ただ、こうした立派な天皇に護られて私は安穏と日本人として生きていられるのだとありがたく感じた。天皇のためにも、真面目に誠実に毎日の生活を送っていこうと思う。